生きていくということ

この2ヶ月ほど、辛い状況が続いていました。

軽い適応障害、そして軽度のうつ状態ってやつです。

30人程度の中小企業で、自由度を持って仕事をしていた私、Forestが1年半前に800人弱の大きな(と言っても、何万人もいる大企業に比べれば、たかが知れているのですが)企業に転職し、最初の1年は慣れるだけで精一杯。

2年目を迎え、「さあ、やっと本腰を入れてやる気を見せねば」という時に、今まで知らなかった会社の流儀や、根回し、決裁プロセスなどに直面し、戸惑ってしまったというのが、第一義的な要因ってこと。

社内の決まりごとや調整があまりに大変で、すっかり社外のパートナー社を疎かにしてしまい、気が付いたら過去の反省&自己追責、そして不幸な未来ばかりを想像してしまい、「全く現在を生きていない」という負のスパイラルに陥ってしまっていました。

 

平日はもちろんのこと、土日ですら「あの時、ああしていれば」という過去の振り返りと後悔の念に苛まれて、心臓がバクバク高鳴ってしまうほど。

食欲も全く湧かず、平日もランチを食べることさえ忘れ、ひたすらにどんよりとした空気の中で狭いオフィスの椅子に座っていました。

何もやる気が起こらず、休日は身体を動かすことすら億劫で、ずっと横たわって過ごしていました。

 

幸い、色々と手を打って、状況は快方へと向かってきてはいます。

 

そんな中、お知り合いの訃報が飛び込んできました。

前職時代にお付き合いのあった同業他社の方。

闘病中とは伺っていましたが、その後奇跡的に回復し、お仕事にも復帰されたと聞き、安心していたのですが、病気が再発し、帰らぬ人となりました。

 

彼に最初に会ったのは、もう2006年くらいだったかな?

私も前職時代の悩みを抱えていた時期で、不平不満やら、色々と聞いて頂いた記憶があります。理論派かつ情熱あふれる彼に、理路整然と、でも愛のある駄目出しをされました。

お世話になったにも関わらず、その後は転職したご挨拶すら差し上げることなく、あっけなく逝かれてしまいました。悔やんでも悔やみきれません。

 

今日、お通夜に参列してきましたが、彼が最初の発病後、見事に復活され、その後の人生を充実させるべく、精力的に色々なことに取り組んでいたことを知りました。

 

お会いして、今の仕事のお話もしたかった。

そうしたら、どんな言葉をかけてくれたでしょうか?

 

奇しくも、斎場は今年の4月に親友だったNさんを見送ったのと同じ場所でした。

ここ最近、Forestの精神状態が不安定だった時、Nさんに会いたいなあ〜と何度も思いました。きっと彼女だったら、欲しい言葉をかけてくれたに違いない。

「Forestなら大丈夫ですよ!」という優しい声が頭の中にはこだまするのですが、実際に話すことは叶いません。

 

今日お送りしたHさんもNさんも、お若くして逝かれました。

やりたいこと、見たい景色、行きたい場所…沢山あったことでしょう。

彼らのことを考えると、社内の人間関係、調整ごと、根回しくらいで悩み苦しみ、自分を追い詰めているForestがとっても小さな存在に思えてくるのです。

 

「生きていく」って何なんでしょう?

ストレスなく、自分の好きなことだけをやって生きていければ、それは最高。

でも、実際の生活ではそんなこと、有りえない。

 

ただ分かったことがあります。

それは、辛い時、自分が窮地に立たされていると思った時に、親しかった故人のことを思い出す…ということ。

志半ばでこの世を去らなければいけなかった彼らに思いを馳せれば、たいていのことは乗り切れるような気がするのです。

遺影の中で優しい笑顔を見せるHさんの在りし日の姿を思い出しながら、そんなことを考える夜です。