バレエ「ロミオとジュリエット」考察

知人からご招待頂き、先日とは別キャストでK-balletの「ロミジュリ」を鑑賞。熊川哲也振付版。2日と開けずにオーチャードホールでバレエとは何たる贅沢。

ロミオとジュリエット」のストーリーを知っている人は多くとも、バレエを観たことがある人は数少ないのでは?特に日本人は。。。

プロコフィエフの楽曲によるこのドラマチックバレエは、振付家たちの創作意欲を刺激するのでしょう。1938年チェコスロバキアのブルノ劇場での初演に始まり、

 

1955年フレデリック・アシュトン版(デンマーク国立バレエ)

1958年ジョン・クランコ版(ミラノ・スカラ座

1962年ジョン・クランコ改訂版(シュツゥットガルト)

1965年ケネス・マクミラン版(英国ロイヤルバレエ、ルドルフ・ヌレエフ&マーゴット・フォンティーン初演)

1971年ジョン・ノイマイヤー版(フランクフルトバレエ)

1977年ルドルフ・ヌレエフ版(イングリッシュナショナルバレエ)

・・・・などなど、名だたる振付家がこぞって取り上げています。

私Forestは上述した版はおそらく全て鑑賞したことがありますが、中でも英国ロイヤルバレエの名振付家だったケネス・マクミラン版は、折に触れてYoutubeでも検索してしまうほど中毒性があります。例えるなら、「冬のソナタ」の名場面をたまに見たくなるみたいな(これはForestだけか・・・笑)。マクミランは「ロミジュリ」「マノン」などの、大衆受けするドラマティックな演目を好み、女性ダンサーの情感と官能美溢れる振付を得意としました。さらに彼のパ・ド・ドゥ(男女が一緒に踊るダンス)は、女性を高く持ち上げ、クルクルと回す、アクロバティックなリフトも特徴。人間業とは思えない動きが次々と繰り出されます。

韓国ドラマファンはきっと、マクミランバレエを好きになると思う。韓国ドラマにおける現実離れした設定と展開(好きになった相手が結ばれてはいけない定め・・・的な)は、まさにバレエの世界そのものだからです。

さらに「ロミジュリ」の舞台はひたすら美しい。美男美女が流麗な音楽に乗って、これでもか?!と言わんばかりに絡み合う姿は眼福そのもの。これも韓国ドラマとの類似点でしょう。

「ロミジュリ」最大の見せ場が「バルコニーのパ・ド・ドゥ」。「なぜあなたはロミオなの~?」と、バルコニーに出てきて一人夜空を見つめているジュリエットの元に、マントを羽織ったロミオがやってきます。それもちょっとミステリアスな音楽と共に。このマントが似合わないダンサーは、ロミオ役を演じられない!

K-balletの設立者であるクマテツこと熊川哲也によるバルコニーシーンはこちら。


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やはり素晴らしいです。もういくら彼がドヤ顔しても納得です。ここまでナルシスティックにロミオに成り切れる日本人男性がいるだろうか?だから私Forestは、クマテツの踊りが好きです。「彼だったら西洋のストーリーを完全に自分のものにしてくれる」という安心感があるから。彼が日本人であることを完全に忘れます。

ところで、1965年に英国ロイヤルでマクミラン版を初演したルドルフ・ヌレエフとマーゴット・フォンティーンの踊りもyoutubeで観ることができます。さすがに60年近く前とあって映像の粗さは否めませんが、時を経ても色褪せない二人の完璧なパートナーシップには心打たれます。


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引退間際だった42歳のプリマの前に突然現れた、24歳のソビエトのダンサー。海外公演先のパリで亡命したヌレエフとの出会いが、フォンティーンの運命を変えます。19歳の年齢差を超えた奇跡のパートナーシップで、彼らは世界的な大スターへと昇り詰め、フォンティーンは終わりかけていたバレエ人生を、再び花開かせるのです。

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19歳下の天才ダンサーと踊れるとは。。。それだけで若返ります。

ヌレエフ&フォンティーンのエピソードは大好きなので、また別途ページを割くことにしますが、「19歳差(しかも女性が上!)のコンビが世界を席巻!そして女性は第二の黄金期を迎える!」って、まさに韓国ドラマものの奇跡の大逆転ストーリーじゃないですか?!しかも、それが今から約60年前に繰り広げられていたというのですから、時代を超先取りです。今の世の女性たちにも、勇気を与えるエピソードじゃないでしょうか?「良いパートナーとの出会いさえあれば、人は再び輝ける!」ってね。

今でこそ、ロシア人ダンサーは海外のバレエ団に所属し、世界各地で踊ることが常識になってますが、冷戦時代のソ連では自由に国外に出ることができなかった。やんちゃな言動で当局に目をつけられていたヌレエフは、マリンスキー劇場のパリ公演の後、皆が次の公演先ロンドンへ向かおうとする中、一人だけ「ソ連行き」のチケットを渡されます。パリでもフランス人ダンサー達と夜の街に繰り出し、宿舎へ戻るのは深夜という、フレエフの奔放な行動は、監視していたソビエト政府には脅威に映ったのです。「国に戻ったら自由はない」と直感した彼は、西側(この言葉自体が死語・・・)への亡命(この言葉も死語に近い・・・)を決意。ソ連初の「亡命アーティスト」となったわけです。 しかし。。。昨今のロシアによるウクライナ侵攻で、ロシアのダンサーが続々と国外に流失している。せっかく死語になっていた「亡命」に近い動きがなされていることに、「歴史は繰り返すのか・・・」と暗澹たる思いがします。

かつて決死の覚悟で国を捨てたヌレエフ。彼が生きていたら、今のロシアを見て何を思うでしょうか?彼は「ダンサーはその一歩一歩に血の跡を残さなくてはいけない」と語りました。タタール人とバシキール人の血を引く、ウファ出身の貧しい少年は、ワガノワバレエ学校時代も、他の生徒たちのサンドバック状態。「田舎者」と虐められ続けました。そんな環境下で、彼は血の滲むような努力をして、鋼の精神力を培ったわけです。

それくらいストイックに鍛錬しているダンサー達が、今この世界にも数多くいます。踊る場を失うこと。それは彼らにとって死を意味することに等しいでしょう。彼らの心身が傷ついたり、命を落とすことがないように、ロシアバレエの歴史を作ってきた先人たちに思いを馳せつつ、心より祈ります。